塚の場所、下記伝承との関係について

慶安の頃、ある浪人がみごもった妻とともに陸奥より角間川に来る途中、とある山で陣痛をもよおし子を産んだ。浪人は妻をいたわり、床をつくり妻と子を寝せ自分も岩に腰掛け、睡ってしまった。家で召し使っていた下女の様子で若い女が世話をしており、怪しいことと思っている間に、妻子を喰い殺してしまった。浪人は段平を抜き妻子の仇と打ちかかったが、怪物が迫り、自分の身もあやしくなったため、そばの樹にのぼり、一命をとりとめた。夜が明け怪物も去ったので、樹からおりてみると、妻の亡骸は骨のみとなっていた。浪人は骨を拾い集め、山里におりたが、世の中の行末を思い角間川の浄蓮寺の弟子となり、名を権斉と改め、妻子の霊を弔ったという。(長山幹丸 秋田県仙郡北協和村上淀川 蓮西寺)

浮浪人の妻が文字の山中で突然産気づいた。眠気から覚めると下女の姿をした山姥が、生まれたばかりの子も妻も食っていた。仇を討とうとしたが果たせず、やがて角間川にやって来た。夫は浄蓮寺の弟子となって権斎と名乗った。山姥と戦った刀が今でも残っている。権斎は九戸城の落人であったのだろうか。(菅江真澄 雪の出羽路平鹿郡一) →新町稲荷神社境内にある「遊士権斉塚」碑がそれであるらしい(池田光「何を問う~碑」平成10年1月1日、仙北新聞)。碑の右横には「文政六癸未七月黒丸惟孝」と刻まれている(新町稲荷神社は、1854年新屋に移住した黒丸家の氏神社だった)。