藩政時代屈指の要港であった場所。天保6年(1835)の記録によれば、当時秋田藩の財源は藩米を大阪に移出して換金していたが、その換金額の半分にあたる米が角間川港から積荷されているほど繁昌した川港。しかし奥羽本線の開通によって、川港は徐々に衰微し、横手川もまた改修工事で旧川は廃川となり、昭和50年に埋め立てられた。現在は、川港親水公園として整備されている。

 はまぐら前広場への入口脇にある稲荷社で、館の稲荷ともいわれる。九郎兵衛稲荷は、角間川の古い記録に残る所謂「四人百姓」のうちの1人、高橋九郎兵衛が氏神として祭ったといわれ、そうすると慶長年間(1596-1615)か、それ以前にさかのぼる古い神社。今でも高橋家の氏神様として祭られている。また、この場所は古館とも呼ばれるが、菅江真澄は、小野寺氏重臣の黒沢甚兵衛の館跡ではないかと、『雪の出羽路』に考証している。脇に生えるているのは、さいかちの古木で、かつては仙北郡と平鹿郡の郡境を雄物川から見るときの目印になっていた。

 角間川橋のたもと、本町の入口にある大きなお地蔵様。伝承によれば、文化13年(1816)、豪雪と長雨で疫病が発生し、村民がばたばたと死亡した。横手川べりに角爺(かくじい)という地蔵信仰にあつい老人がおり、疫病を無くそうと一身を捧げて昼夜の区別無く地蔵に祈り続けた。二十一日の祈願が過ぎる頃、疫病は収まり、村人は金を出し合って地蔵を建立した。石像には「奉敬建悪魔消除郷中満足 甲子五月二十四日」と刻字されている。

 陀仏は「ダンブチ」と呼び、段淵の意味であろうか、昔は角間川橋の上流100mほどにある渦巻く深い淵であった。慶応4年(1868)8月13日、戊辰の役で角間川は激戦地となった。奥羽同盟軍(庄内藩、仙台藩など)は、勝ちに乗じて角間川の町に火を放って追撃に移ったので、退却する連合軍(秋田藩、矢島藩など)、特にしんがりを務めた秋田藩の兵と避難する町民とが一緒になり角間川の渡し場は大混乱となった。『戊辰秋田藩戦記』では秋田藩士の討死は38人、手負い13人と記録されている。親水公園に慰霊碑がある。

 角間川町の鎮守である諏訪神社は、町の鬼門にあたる北東(艮)に配され、旧横手川を背に、大樹うっそうたる社地に鎮座している。慶安元年(1648)の創立。昔、旧八幡神社の社地に梨の木があり、木の下に鎮座していた建御名方富命の祠(ご神体)を祭ったという。諏訪神社は、明治11年ごろ現在地に移り、角間川町の鎮守社と定め、8月21日を例祭日とし、お神輿が愛宕神社を経由し町をまわる。ご祭神は、建御名方大神、天照大御神、三吉大神。また、諏訪神社の境内には、内町大友家の内神である多郎左衛門稲荷がある。
 毎年2月1日には、33歳の女性と42歳の男性の合同厄祓いが、42歳の厄年となる年代会により行なわれている。珍しいことだが、このときのお祓いは本殿にて執り行われるのが、角間川の諏訪神社の慣例となっている。そのためか拝殿より本殿が大きく、外観からも確認できる。

 旧横手川の川筋で、角間川港の跡地を整備した公園。公園内には野球用のグラウンドもある。町の西側を通るバイパス脇に駐車場があり、歩道沿いに歩くと浜倉の前、かつての川港跡に出る。公園は河川改修により堰き止められた旧横手川の川筋に沿って、角間川小学校グラウンド裏の出川沿い土手まで続く。この旧川筋に沿って桜が植えられており、お花見の季節には散歩やランニングに絶好のコースとなる。

 角間川の本通りは南北にまっすぐ伸びていて、かつては県南有数の地主街であった。現在は、本郷家と北島家、そして荒川家が残っている。この黒塀が続く静かなたたずまいは、昔の大地主の面影を今に伝えている。本郷家母屋などは登録有形文化財に指定されている。北島家の西側にある土塀蔵も風情のある蔵で、土塀蔵の門から裏道に出ると、夕暮れ時などは非常に趣きがある。また、かつて本郷家の土地から産出された米俵には「腹■(はらかく)」という印が押されてあり、明治12年「米格付略表」によると、腹■印米が建米(売買・取引の標準)となっている。

 明和8年(1771)より角間川の肝煎を務めた黒丸五郎兵衛の氏神として、伏見の稲荷を勧請したもの。黒丸家は藩主の命により海岸防衛のため新屋へ移った。現在は、新町の輪番で祭っている。境内には権斉塚があり、権斉という人物の昔話が伝わっている。この物語は菅江真澄により記録され、柳田国男著『桃太郎の誕生』にも紹介されている。浪人権斉が、妻子の仇である山姥を討ち取り浄蓮寺の弟子となる話である。権斉が山姥を討ち取った太刀は2尺9寸の肥後守国康とされている。

 浄土宗。慶長18年(1613)頃か、それ以前の建立。四人百姓の筆頭、高橋九郎兵衛が建立したとされる。国指定重要文化財「絹本著色當麻曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくたいままんだらず)」がある。この曼荼羅は、宝暦三年(1753)、北島三左衛門長好が伊勢参りの際に京都で買い求め、寄進されたと伝わり、鎌倉初期か中期の作品と推定されている。また、境内には古い板碑があり、鎌倉末期のものとされている。

 浄土真宗東本願寺派。開祖は小野寺義道の弟で大森城代の小野寺康道。島森道義先生の解釈では宝永八年(1711)建立とされるが、この年に本願寺から寺院として認められたのではないかと考えられている。

 日蓮宗。寛永十七年(1640)建立。
 明治期、覚善寺の南方の小中島に青松館という講学所があった。青松館は郷校と合併し小中島学校となる。現在の角間川小学校の前身。

 寛延2年1月1日(西暦1749年2月17日)角間川に生まれる。天保12年8月15日(西暦1841年9月29日)没。江戸時代中期から後期にかけて出羽国久保田藩で活躍した在野の儒学者。名は直養、字は季剛、通称は文六。久保田藩の藩校明徳館の教授に請われたが固辞し、「守拙亭」と称する私塾を角間川にひらいて士族・庶民の別なく儒学を講じた。学識・人格ともに優れ、藩内でも有名な学者として知られた。
 川港として繁栄する角間川地域の風紀粛正につとめ、壮年以降に修得した医術によって貪富の別なく地域医療にあたり、冷害に強い早稲種を集めて研究し、農民にすすめる(それらは文六早稲と呼ばれた)など地域に尽くし、「角間川聖人」とよばれ、士民から慕われた。93歳で死去するまで253冊もの著作をおこなっている。主著に『東堤随筆』『四書講義』がある。天明の大飢饉の際には久保田藩により飢饉対策を求められ、天明6年(1786年)『落合東堤上書』を具申した。
 墓所は、喜福院に所在する(本町の墓所)。落合東堤先生の生地であることを案内する標柱が、この生誕碑。
 (最上氏住宅:落合東堤生誕碑のある敷地にある往時の面影が残る古い屋敷。庭木も立派である。良く見るとガラスは表面が波打っている古い板ガラスのようである。)

 真言宗智山派。慶長7年(1602)前後の建立。真言宗は小野寺氏の信仰が厚かったため、多くの角間川給人の菩提寺となっている。八幡神社の別当寺であった。かつては山形の真言宗の大寺院、宝憧寺(ほうどうじ)の末寺(宝憧寺は今は無く、山形市内にもみじ公園として書院と庭が残る)。宝憧寺は小野寺義道の宿敵、最上義光との関係が密接な寺院であるが、宝憧寺文書によれば、末寺願が出されているのは延宝3年(1676)である。
 最初は浄蓮寺や長応寺の東方にあったとされ、今でも浄蓮寺の墓地に隣接して喜福院の墓地が残る。火災により、今の八幡神社の場所より少し川寄りの地に移ったとされるが、旧横手川の川欠けにより再度の移転を行ない、喜福院の屋敷があった現在の場所に移る。八幡神社の後方にも墓地が残っている。
 松岡白石作の地獄絵図がある。また、鎌倉末期の板碑である「嘉暦板碑」が残る。

 

 調査中

 1824年建立の3メートルもある大きなお地蔵さん。この場所の土中より2体の地蔵尊が見つかったのを機に建立された。今も3体並んでいる。この辺りはかつての町はずれで、下の地蔵さんと町の両端に地蔵をまつり、町内の安全と無病息災を願ったとされる。

 文化6年(1809)、荒川勘助、新右エ門の兄弟が身延山七面大明神を勧請したとされる。別当は荒川家の菩提寺で日蓮宗の覚善寺。現在は四角に区切られた台地に老杉とイチョウに囲まれて小さな祠があるのみとなっている。その石碑には「伊那利大神」「高億嘉美大神」と刻字されている。伊那利は稲荷の当て字、高億嘉美は高オカミ(たかおかみ、オカミの字は、雨冠に口を三つ書いてその下に龍)の当て字と思われる。高オカミ神は、京都貴船神社の祭神であり、水の神である。古事記では淤加美と表記される。祠のある場所は周りより少し高くなっており、洪水の際にもここだけ沈まず浮いて見えたことから浮嶋明神の異名がある。今でも田植えの頃、周りの田んぼに水が張られたときだけ浮嶋の姿をしのぶことができる。昔はお社があったという人もいる。

 享保11年(1726)創立。祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)。中上町の旧家の氏神とも、諏訪神社5代目宮司が設立した修験場が起源とも伝わる。明治期、角間川の地主の全盛期には、境内で大相撲がたち、桟敷がかかって見物客で賑わった。例祭日は、諏訪神社と同じく8月21日。また、1月第4日曜日には、梵天祭が行なわれる。現在は、地域の42歳になる男衆の厄祓い梵天と、地域の社会人野球チーム角間川ブレーブスの梵天の2本が、毎年奉納されている。
 梵天が神社に到着すると、鳥居をくぐる手前で到着の口上と納めの唄が披露される。奉納のときは、梵天を横倒しにして、社殿目指して参道を駆けてゆく。社殿入り口で受け手と揉み合いになり、奉納を防がれては鳥居まで戻り、また駆け上がっていく。3回目で奉納成功となるのが慣例である。梵天巡行および奉納行事の一連の様は非常に風情がある。

 かつての奉安殿。銅板ぶきの屋根の木骨コンクリート造り。終戦までは、天皇・皇后の御真影と教育勅語を納めた建物で、旧角間川小学校(四上校舎)校庭にあったもので、大正2年2月28日建立。戦後、各地の奉安殿はGHQにより取り壊しが命じられているが、詳細は不明ではあるものの当地の奉安殿は取り壊しを免れ、八幡神社の境内に曳家して移築された。移築には2ヶ月を要したという。その後、和光殿と名前を変えて、角間川の戦没者百十九柱を祭っている。毎年6月に慰霊祭が行なわれる。秋田県内で取り壊しを免れ現存しているのは、角間川の和光殿を含めて3箇所のみ(大館と男鹿にひとつずつ)である。

 八幡神社の建立は、慶長10年頃(1605年)。小野寺氏旧家臣団の入植が1603年なので、入植後間もなくの建立。この八幡神社は、かつての主であった小野寺氏が信仰していた沼館の若宮八幡宮を、角間川給人が勧請したものと伝えられている。慶長6年(1600年)の小野寺勢と最上勢との戦で沼館城が陥落したために神社が廃れ、これを見かねた角間川給人が勧請、自分たちの産土神として祀ったといわれる。小野寺氏とゆかりの深い角間川給人の総鎮守神社。
 当初の宮地は、現在の浄蓮寺の東側に喜福院と共にあったともいわれる。現在も浄蓮寺の隣には、喜福院の墓地が残る。そこにあった最初の喜福院が火事で消失し、喜福院とともに現在地に移ったと伝わる。八幡神社の奥に見える墓地は喜福院の墓地。その後に、横手川が川欠けしたため八幡神社は北側に移り境内も小さくなったと伝わる。それでも杉の大木がうっそうと茂って、昼さえ暗い荘厳な神社であり、社殿の南側を満々と水をたたえた横手川が深い淵となって流れていたという。
 喜福院はその時に三度目の移動をし、大浦町の現在の場所に移った。明治以前の神仏習合の時代、喜福院は八幡神社の別当寺とされており、小野寺氏の信仰の厚かった真言宗の寺院である喜福院と一体となっていたことが伺える。御祭神は誉田和気命(ホムタワケノミコト)。例祭日は9月15日。
 また、ご神体のひとつとして、社地の木の根元から掘り出されたと伝えられる梵字と阿弥陀三尊像が刻まれた貞和板碑がある。貞和は1345年~1349年までの間で、南北朝時代にあたる。

 かつての角間川小学校の小体育館(体操場)。道場内には大正14年に改築されたという木札が残る。四上町校舎は明治32年に移転新築されたもの。角間川小学校が現在の場所に移り四上町校舎が解体される際、この体操場だけは、かつてプールがあった場所に曳家され、残された。角間川の剣道の歴史は、この角間川剣道場と共にあり、現在も角間川剣道スポーツ少年団の子供たちが稽古に励む。

 角間川小学校第4代目および第7代目校長。最初の着任である明治25年(1892)、小学校にて文武不岐を掲げて剣道授業を始める。これが現在まで続く角間川剣道の始まりとなる。顕彰碑は、角間川小学校創立90周年を記念して建立されたもの。

 かつての角間川小学校跡地。現在は公民館・保育園・児童公園となっている。かつての校舎は小体育館のみ角間川剣道場として敷地の南側に残っている。また、敷地北側の児童公園の入り口両脇には旧小学校の門柱も残る。

 愛宕町から木内へ向かう街道の西側にある塚。かつては一本松があり、鳥海山を背景にして絵になる風景であった。自然石の表面に「旭塚」、裏面に「文政五壬午(1822)七月七日 黒丸惟孝建之」と彫刻されている。
 菅江真澄の収集した伝説によれば、沼館の若宮八幡宮に旭姫という霊験あらたかな神子がいたという。まだ老いてはいないが、神となって民を救いたいと願い、それを人々に伝えた。人々は何か理由があるのだろうと、願いの通り塚の中に埋めた。その際、角間川給人の開墾成就と豊年万作を祈願した。この塚の近くでは、近い世まで鈴の音が聞こえたという。昔はお盆13日の夜、肝煎が裃を着てお参りをしたという。

 

 明治末期から大正初期にかけて、角間川近郷の農家が疲弊した際、最上直吉氏が木内・布晒の改良事業を考え、秋田の聖農を仰がれていた石川理紀之助翁を招いた。経済的に困っていた農家に副業として早朝のわら細工を励行し、売上を貯金するよう指導した。翁の尽力によって各戸の債務は整理され、勤労意欲も向上し、木内・布晒はめざましく更生した。石碑は、大正10年6月に石川翁の遺徳をしのんで建立されたもの。

 門ノ目は、角間川の最南端に位置する集落。江戸時代は独立した村落であったが、明治3年、布晒とともに角間川村に合併された。木内は門ノ目の枝郷であった。横手市大雄との境界になっている。この門ノ目で、天保6年(1835)、凶作に備えて感恩講をたてたが、木内の新目五郎助が五斗入れ米百五十俵を土蔵に入れ、困窮者を救ったという逸話が伝わっている。

 角間川給人が慶長八年(1603)に入植した後、最初に着手したのが堰の普請であった。蛭野堰は横手市平鹿町浅舞字蛭野の湧水を水源にした総延長4里の水路である。また、深堀堰は横手市境町根田川地内で大戸川より取水する水路である。どちらの水路も、400年を経過した現在も角間川の田んぼを潤している。蛭野堰の水源は、今も角間川の人たちによって草刈りなどが行なわれている。

 

 

参考文献
大曲市昔を語る会連絡協議会(編)『大曲市の歴史散歩』(大曲市・大曲市昔を語る会連絡協議会、1977)